こどもの日に食べる柏餅とちまきにまつわる由来について知ろう!


子供の健やかな成長をお祝いするために、国民の祝日法により制定された祝日の一つ、「こどもの日(5月5日)」という日がある。

そして、こどもの日に食べる有名な和菓子は、「何?」と聞かれたら、もちろん、「柏餅(かしわもち)や粽(ちまき)」と答えますよね。

そんな甘くて美味しい柏餅や粽には、実は、それぞれの由来があります。

そこで、こどもの日に食べる柏餅とちまきにまつわる由来について紹介しよう!







こどもの日に食べる柏餅とちまきの由来!

まず、この2つの和菓子には、それぞれの由来がある。

なので、それぞれの由来ごとに分けて、以下のとおり紹介していきます。

【柏餅とちまきのそれぞれの由来】
  • ちまきは中国の戦国時代に現れた!
  • 柏餅は江戸時代に登場した!

それぞれの由来について、サクッと確認したら、さっそく粽の由来から順に確認してみよう。

ちまきは中国の戦国時代に現れた!

まず、ちまきとは、白いプルンプルンとした餅を円錐(えんすい)のような形にして、それを笹の葉で何重かに包むために糸などでグルグルと巻きつけた和菓子のことだ。

そして、そのちまきの始まりが、「中国の戦国時代ではないか?」と言われている。

なので、まずは、その真相を知るために、以下の由来話があるので、サクッと読んでみるといい。

【楚の屈原の悲しいお話】

「時は戦国、中国では、秦(しん)、楚(そ)、魏(ぎ)、斉(せい)、韓(かん)、燕(えん)、越(えつ)という七国が互いに対立し、覇を競い合う、まさに群雄割拠の真っ只中にあった。

その中の一つの国である楚の屈原(くつげん)は、「楚の第20代王、懐王(かいおう)の側近」として仕えていた。

また、同じく屈原の考えとは相反するものの、「懐王の宰相として仕える張儀(ちょうぎ)」という者もおられた。

この二人は、事実上、楚の王の側近としてナンバー2のような存在で、日々自身の考えや意見を王に助言するそれぞれの立場にあった。

そんな中、日増しに強大化している秦の脅威に立ち向かうため・・・。

真っ向から対立する親斉派の屈原とその家臣。

秦の存在を受け入れる親秦派の張儀とその家臣。

との間で激しい対立が続いていたという。

そのため、この対立を失くすため親秦派の張儀は、ある策略を巡らせて、対立する親斉派の屈原をはめて失脚させようと考えた。

そのある策略とは・・・。ゴニョゴニョな策略で邪魔な存在である屈原を失脚させることに見事に成功するのであった。

そんな策略を無事に成功させた張儀は、その後、操り人形のごとく懐王を意のままに操ることに成功する。

それからというものの懐王自身も張儀の策略にはまり、秦に幽閉され、自身の生涯を終えることとなってしまった。

さて、ところ変わり失脚させられた屈原の方は、流罪により地方へ飛ばされることとなった。

その地方へ飛ばされたショックは、なかなか思いのほか重く、屈原は、立ち直ることができなかった。

そして、そのショックから今の自身の考えを泪羅江(べきらこう)と呼ばれる川で身を投げることしか頭に浮かばなくなるほど深く思い詰めておられ、その考えは、結局のところ現実に起こるものとなってしまった。

そんな中、彼を慕う楚の人々は、この事実を知るや、深く彼を憐れんだ。

それから、彼の身が魚に食べられないようにするために、代わりに笹の葉を包んだ米の飯を川に投げ入れて、彼の冥福を深く祈ったという。

奇しくもその日、5月5日は、「彼の命日」だった。

その後、幾ばくかの時が流れ、漢の武帝の時代となり、あるお告げがあった。

それには、『屈原を弔うためにちまきを作り、冥福を祈りなさい』とこうして5月5日は楚の屈原を偲ぶ日となったという。」

少し長くなったけれど、ここまでの話が、「中国の戦国時代にちまきが現れた」という由来話だ。

この由来話のおかげか、中国では、5月5日の日にちまきを食べる習慣となり、その習慣は、後に日本にも伝わるようになったそうです。

日本の平安時代にちまきが伝わる!?

日本にちまきが伝わったのは、「平安時代である」と言われる。

中でも、以下の「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に編集された辞書の箇所の一文にあるそうだ。

【平安時代中期に編集された辞書】
和名類聚抄【辞書の中の項目】
  • 和名知萬木。
【項目の内容】
  • 「もち米を植物の葉で包み、これを灰汁で煮込む」という製法。

つまり、この一文から、「この時代にちまきが伝わったのではないか?」と考えられている。

そして、その後は、各地でちまきの改良が行われ、江戸時代にちまきは、4種類へ分かれていくことになったのです。

ちまきは江戸時代に4種類になる!

江戸時代に刊行された本草書の本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)という書物に、以下の4種類のちまきが紹介されていたという。


これら4種類のちまきが、江戸時代に紹介されていて、現在では、これら4種類のちまきをベースに、それぞれ以下のような特徴に変化している。


といった日本のちまきは、長い年月を経て、少しずつ現代のちまきへと変わっていったわけです。

さて、そんな粽(ちまき)にまつわる由来について色々と知ったところで、次は、柏餅の由来について見ていこう。

柏餅は江戸時代に登場した!

こどもの日に食べるもう一つの和菓子、柏(カシワ)の葉を用いた柏餅は、「江戸時代の徳川家九代将軍家重から十代将軍家治の頃に生まれた」と言われている。

そして、柏餅とは、以下のような状態で作られる和菓子のことだ。

【柏餅の作り方】
  1. 平たくして丸めた上新粉(じょうしんこ)の餅を二つに折る。
  2. 1の折った間に小豆あんやみそあんなどを挟む。
  3. 2の状態を柏の葉やサルトリイバラの葉などで包む。

また、上新粉(じょうしんこ)とは、うるち米を加工した粉のことです。

さて、そんな柏餅に柏の葉を用いたのは、柏の葉に以下の特徴があるからそうだ。

【柏の葉の特徴】
  • 柏の葉っぱは、新しい芽が育つまでは古い葉が落ちない。

つまり、「これからも家系が途切れずに永久に続きますように」という子孫繁栄の願いのために用いられるようになったわけだ。

また、柏の葉には、昔から以下の意味や理由で使っているとも言われる。

【柏の葉を使う意味や理由】
〈意味〉
  • 命を子孫に譲る葉っぱ。
  • 神様に近い縁起の良い葉っぱ。
〈理由〉
  • 柏の葉に敷いた上に米や魚などを乗せて、神様に捧げるため。(食器として活用。)
  • 災いを祓うため。(まよけとして利用。)

これらの意味や理由もあることから、江戸の武家社会では、跡継ぎの男の子が無事に生まれることを願ったり、健やかな成長を願う縁起のある植物として用いるようになったのです。

そして、その後の柏餅は、江戸の参勤交代をきっかけに日本全国に広まっていきました。

ちなみに、柏の葉の代わりにサルトリイバラの葉を使う時期があったそうだが、これは、以下の理由のためだという。

  • 柏の自生が少ない地域だから。

つまり、柏の葉がなかなか手に入らなかったので、「サルトリイバラの葉を代わりに使うようになった」というわけだ。

中でも、江戸以外の柏の自生が少ない地域(近畿圏以西)では、柏の葉の代わりにサルトリイバラの葉を使って、柏餅にしていたという。

けれど、現在の柏餅は、中国の輸入などで柏の葉が簡単に手に入るようになっているので、サルトリイバラの葉を使っている地域は少ないそうです。

こどもの日は柏餅とちまきの両方を食べよう!

柏餅とちまきには、それぞれの由来に違いはあったが、結局、どちらも美味しい和菓子の仲間です。

なので、こどもの日に「柏餅」と「ちまき」の両方を一緒に味わって食べてみるのはどうですか?

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